過去は変えられる

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The past can be changed.

ほんの数年前まで大変だったわたしの人生、

最近あるきっかけで”わたしの年表”なるモノを作成してみて

もちろんハード過ぎて書けないコトや細かすぎて書いていないコトもありますが

改めて眺めてみて、よくここまで来たね、というねぎらいの想いです

よく生きてたね、とも思います、

”死”が身近な環境にいたことも、じぶん自身が近づきすぎたこともありますので。

それにしても心が病んではいたとは思うけど”犯罪”絡みは一切無かったので

その点も、わたしアッパレ!、よくぞ正気すれすれで乗り切ってきました。

過去のわたし

とにかく沢山の色んな出来事が起こってきたわけですが、その度に感じていたのは深いところでは同じ感情。

ヒトがなぜそんな残酷さを表してくるの? それをすることでヒトは救われているのか?

ヒトが基準とする”みんな”ってどこにある何なのか?

…知りたくて知りたくて、真似してみたくて、同じになりたくて、

でも感覚は境界がわからなくなるほど共感できても、ヒトがそんな風に信じているものが分からない…

その哲学的な宗教的な根っこが無いわたしはいつもはみ出してしまっていたし、

その欠落している根本的な部分を埋めるため同じふりをしてぎこちなかったし、

実験的に試すためにわたし自身もヒトに対して随分冷酷だったと思います。

そのせいでもがけばもがくほど深く沈んで行ってなんの感覚も麻痺してしまって、

息もできず空っぽのまま周囲の心が視えてどんなに傷つけられもスルーして

ただただ小さくまとまろうとしていました。

経験とじぶん自身

人生の1冊目を終えていま、ふとあの頃を想う時間がときどき訪れます。

俯瞰して定義づけるとしたら、あのときに感じていたことと今のわたしが感じること、

”感情”は何も変わりが無いのです。

わたしを衝き動かす原動力はいつも慈愛で、大切にしていることも美しさを感じることも。

結局は何が起ころうとも「わたしは変われなかった」わけです。

別の視点では「変わることなく”わたし”で居られた」のです。

当時と今でとらえかたが変わるように、事実は一つでも真実は常に変容しています、じぶん自身の心のカタチに合わせて。

わたしの歪で持て余していたところは、今では純粋さの象徴のようでとても気に入っています。

ただ当時関わった方々にはいつも申し訳ないキモチでいます。

今もわたしらしくすることで何かの迷惑を感じられている方も居られるかもしれないけど、

わたしは”わたし”を辞められないんです。

傷が光になる

こんな風に傷だらけ、毒だらけの過去の想い出ばかりですが、

心が平和になって環境が落ち着くと、じぶん自身で感情と思考のコントロールが効くようになって

まるで静かな魔法のようになにもかもが美しく輝いて感じられるようになるのです。

わたしの場合は特に落差がある分、ギャップでより愉しませてもらえています😅

いつもの森へ行くと歩きながらよく泣いていることに気づきます、自然の美しさに圧倒されて。

そして、いつかの辛い時も嬉しい時もどのシチュエーションでもこんなことがあったな、と気づきます。

それぞれがわたしの奮闘と情熱を注いだ記録で、じぶんを褒めたい愛しさを感じます。

ひとつ一つを拾い集める間にそれぞれが温かい光を放ちわたしの中に浸透します。

癒しの時

こんな風に自然と訪れる”癒し”の時を感謝して受け取っていくのは心地良いことです。

無理やりこじ開けたりしなくても大丈夫、あなたの準備が整ったときに最適なタイミングでこの時間を贈ってもらえます。

傷を握りしめ続けているよりも、少し手放しておいた方がこの時間が訪れやすいようです。

そして訪れた時はもうぜんぶを受け容れ包むことができるあなたで在るはずです。

過去の傷が光に変わる時、それはもうあなたの一部であり宝物になっています。

そんなのキレイごと…と思われるなら、試しにわたしの年表を見てみてください。

こんな失敗しかしていないわたしに訪れる機会なら、

あなたにももちろん癒しの時が訪れます、わたしよりもその権利があるはず。

伝えたいのは、幸せの方へ向かっていることは間違いない、ということです。

握りしめた手ばかり気にしていないで、じぶんを大切に、

あなたの完璧な人生の1片は完成するまではその重要性を感じないものです。

ぼちぼちのんびり行きましょう、ときどきリラックスして笑いたくなったらわたしに声かけてくださいね。

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